「私は2月16日、死去しました。お元気で。さようなら」とスマホに書き残していた編集者の訃報が届いた。彼の同期に当たる方が50代で亡くなったとき、「さらばでござる」としたためられた葉書が届いたと何度か聞かされたのと重なる別れとなった。彼の名前は丹野清和。『アサヒグラフ』の編集長などをつとめた方で、日本の文学史・写真史を語るうえで欠かせないいくつかの足跡を残している。その同期というのが写真関係の著作が多い『カメラ毎日』の編集長だった西井一夫なのだから、日本の写真家たちが世界的に再発見され、再評価される土壌を耕し、切り拓いた稀代の編集者たちはいまごろ再会してこの状況をほくそ笑んでいることだろう。
はじめて私が丹野さんに会ったのは1990年、学生気分がまだ抜けきれていないころのことだった。渋谷の裏路地でおこなわれた会合のあとに声をかけられ、新宿の薄暗いバーに連れ出されたのである。それから何度となく足を運ぶことになる、決して狭くはないその店はいつ行ってもほかに客がいなかった。話は決まって雑誌で担当した作家たちのことで、安部公房、中上健次、東松照明、森山大道、手塚治虫ら、まさに70年代から80年代にかけての、そのときはまだ歴史にはなっていない文学史であり、写真史であり、漫画史である。ときどき写真家がふらりと現れて隣の席に座り、仕上げたばかりのプリントを手渡したりするものだから、話は妙に生々しく感じられた。
矢継ぎ早に読んだばかりの新刊書を話題にした。「まだ読んでません」とはなかなか言えず、口よどんだ。私も本を読んでいるほうではあったが、時代と伴走する速度が圧倒的にちがうのである。すべてを見透かされている気がして言葉に詰まり、蛇に睨まれた蛙のように頷くしかなかった。
2000年に『アサヒグラフ』が休刊するのを見届けたあと、2003年に早期退職する丹野さんにちなんで催された集まりには、彼を取り巻くおおぜいの出版関係者らが駆けつけ、名だたる写真家も顔を揃えた。仕事上の接点がなくなってからはバーではなく、自宅に呼ばれるようになった。居間には何枚かの写真が額装されていた。そのうちの一枚は砂埃が舞う道に電柱が無造作に並ぶ風景を、抽象的にとらえたモノクロ写真だった。
「それ、東松さんが若いころに撮った(彼の出身地である)名古屋だよ」
写真編集者らしく、書棚には貴重な写真集が並び、貪るように手にしたが、そんなことより編集部で見せる強面ではなく、奥さんに下の名前で呼ばれる家庭人であることに驚かされた。家庭でも職場でのイメージ通りの人が多い気がしていたからだが、不思議に思って尋ねたところ、「そんなの、当たり前だろ」と人懐っこく笑った。

外国での生活を私が2006年からはじめても、日本に帰るたびにふらりと立ち寄り、自宅にほど近い江ノ島や鎌倉あたりを一緒に散策したりした。丹野さんは当初、帝京大学の教壇に立ち、ジャーナリズムやメディア、出版についての授業を受けもっていた。私にそう感じたように、相変わらず本を読んでいない人が多いとこぼしながら、最近出たこの写真集はすごいとか、この小説はおもしろいぞと目を輝かせた。大学を退職したあとは一人で山登りし、水彩画をスケッチしていた。その姿は私自身が“老後”を迎えるにあたり、なによりのお手本になっている。
丹野さんから数々の荒唐無稽な“零れ話”を聞いていると、文学史や写真史というジグソーパズルにいくつもの重要なピースが抜け落ちているように思えてならなかった。とくに写真関係の本を読むたび、そう感じた。ネット以前の荒唐無稽な“物語”はどれも、いまでは想像のつかないものが少なくない。ぜひ本にして欲しいと編集者の目線で話しても、スルーされてばかりいた。文学全集の月報(付録のように挟み込まれた薄い冊子)に寄稿したり、書評紙『読書人』で東松照明が亡くなった際の鼎談に応じたりしている(2013年2月8日号)が、いずれも断片的なもので、まとまったものではない。すでに歴史となった“伝説”はそのままにしておいたほうがよいとでも考えていたのか、それとも当事者として身近すぎて書きたくとも書けずにいたのか、承認欲求が悪目立ちするなか、本当に語られるべきことは語られていないのを痛感する。
新宿の裏通りにあった敷居の高いバーはいつしか「文壇バー」と呼ばれて光を浴びるようになって移転したが、薄暗い片隅の席で二人して黙りこくったまま、頭がちりちりしてきたのを昨日のことのように思い出す。あれから30数年が経ち、AIが正解らしきものをたちまちなんでも言語化してしまう時代になってみると、うまく言葉にできずにいる私を否定も肯定もせず、辛抱強く会話をつづけてくれたことで、かたちにならないものをかたちづくろうとしてばかりいる私でもなんとかいくつかのものを私なりにかたちづくれた。ときに弱音を吐く私を終始ぶれずに支えてくれた時間は、とても贅沢なものだったと失ってはじめて気づかされている。
個人的な記憶としてでもこうしたことを公に書くことを望んでいるとはとても思えないが、ネットを検索しても一切出てこないので追悼の意を込め、ここに書き留めておく。
