地方移住とローカル・モビリティー【続・東海エリア探訪記】

 地方移住がいまひとつの大きなキーワードになっている。積極的な支援をおこなう市町村も少なくない。大阪に生まれ、仙台で学び、名古屋や東京で働いてきた猪田有弥さんも地方移住を実践した一人で、2018年、岡山県西粟倉村に夫婦で暮らしはじめた。兵庫県および鳥取県と県境を接し、人口1300強を抱える山間の村である。
 この村が全国でも異色なのは、移住者を中心とした100社以上のローカルベンチャーが集まっている点にある。平成の大合併に際し、合併間近の2004年におこなわれた住民アンケートで6割が反対して合併しないことを決めたことが転換点となった。移住者を積極的に受け入れて活性化をはかる、独自の試みに取り組んできたのだ。

山間の広がる西粟倉村の様子(西粟倉村役場提供)。


 猪田さんが西粟倉村を知ったのは2016年、地域共創カレッジという「都会と田舎といった異なる価値観や文化を持った地域が共創している状態」(同ホームページより)を考える場で調査に訪れたのがきっかけだった。このときは移住まで考えていたわけではなかったが、関東の総合病院などで助産婦として働いていた奥さんの敦子さんに、地域おこし協力隊員にチャレンジしてみないかとの打診があり、日ごろから出産を長い目でとらえてみたいと考えていたことから、2人で相談して決めた。
 地域おこし協力隊員は2009年度に総務省が制度化したもので、自治体の委嘱により1年から3年の任期で課題に取り組む。旅好きで出張がちな仕事をしてきた猪田さんは、交通を課題に考えていた。マイカーであればどこでも自由に行けるのに対し、公共交通機関で移動しようすると、全国どこであれ、さまざまな制約があるのを身をもって知っていたからである。だから西粟倉村も困っているにちがいない――。
「交通や移動に課題があると考え、西粟倉村に来たが、村内で〈移動の課題はあるか〉と聞いて回った結論が〈移動の課題はなかった〉ということだった」(『みんなでつくる中国山地』5号、2024年11月30日発行)
 都会目線で感じ、考えることは必ずしも地域のニーズに合致するとは限らない。それもあってか、原則3年とされる地域おこし協力隊員としての活動を西粟倉村では事業化できるか、1年目に審査がおこなわれる仕組みがあるが、猪田さんはパスしなかった。敦子さんにしても、必要とされていると思った助産婦が実際にはそれほどでもなさそうで、煮詰まっていた。夢と現実の狭間に、机上の空論になりがちな面が地方移住にはあり、こんなはずではなかったと諦める事例が跡を絶たない。
 協力隊員の社会実験として猪田さんは1年間、マイカーを持たず、自転車だけで暮らしてみたが、課題はないと言われつつ、困ることが多々あった。自ら実体験することで、ようやく地域に必要なものがなにかが見えてくる。そこからの猪田さんの奮闘ぶりには目を見張るものがあった。「西粟倉村での調査活動をまとめ、全国にある他の過疎地域や公共交通が使いづらい地域の困りごとを解決する手助けとなりたい」とクラウドファウンディングをおこなったうえ、2020年に『ローカル・モビリティ白書』を発行する。「白書」とは行政がまとめる年次報告書の類いにつけられる名称だが、一人で調べたものを一人で書き上げ、172ページの本に仕立てたのである。2019年には『みんなでつくる中国山地』という年刊誌の創刊に、統括マネージャーとしてかかわってもいる。

ローカル・モビリティーの可能性を追った猪田有弥さん(西粟倉村役場提供)。


 言語化することは問題や目標の可視化につながり、周囲の理解も得やすくなる。再審査は無事に通過し、協力隊員3年目の2020年、一般財団法人西粟倉まるごと研究所の立ち上げに参画し、モビリティ担当の研究員となる。そこで小型の電気自動車を貸し出す仕組みを築き、さらにタクシーやスクールバスとの連携をはかろうと取り組もうとしていた矢先の2024年11月、交通事故で帰らぬ人となる。
「猪田さんは、地域おこし協力隊として西粟倉村に移住して以来、モビリティ×福祉等の視点で、中山間地域の願いの実現を目指して、西粟倉むらまるごと研究所と一緒に取組みを進めてきました。まだまだ道半ばですが、小さな村に多様な小型モビリティが走る景色を作るなど、引き続き、モビリティ×福祉等の掛け算で取組みを進めていきたいと思います」と西粟倉むらまるごと研究所の共同代表理事である河野有吾さんは語る。
 猪田さんの考えたローカル・モビリティーは中国地方に限らず全国的な問題で、愛知・岐阜・三重という東海3県の全域を長らく回りながら、いずれもとくに山間部で移動に制約があるのを私自身、たびたび感じてきた。猪田さんの思いが受け継がれることを切に願っている。
(猪田有弥さんのご冥福をお祈りいたします。痛恨の極みです)

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この記事を書いた人

新聞社、出版社、編集プロダクションを経てフリーランスの記者/編集者として活動。文琳社代表。2006年から2024年までチェコとスロヴァキアに家族で居住し、子どもの成長記録を中日新聞文化面に連載したのち、『プラハのシュタイナー学校』(白水社)としてまとめる。その間、日本滞在中に岐阜と三重の各市町村を回り、「東海エリア探訪記」を中日新聞『アドファイル』に連載。岐阜については『岐阜を歩く』(彩流社)を刊行する。ほかに『不自由な自由 自由な不自由 チェコとスロヴァキアのグラフィック・デザイン』(六耀社)、『イマ イキテル 自閉症兄弟の物語 知ろうとするより、感じてほしい』(明石書店)などの著作がある。

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