映画『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』を見て① 私のニューウエイブ体験【続・東海エリア探訪記】

『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』(監督・田口トモロヲ、脚本・宮藤官九郎)と題された映画が東海地区を含め、全国で公開中だ。1978年、ロンドンを起点にはじまった「パンク」「ニューウエイブ」という新しい音楽シーンに触発された「東京ロッカーズ」と呼ばれたミュージシャンたちをテーマにした映画なのだが、瞬間的なムーブメントだったこともあってピンとこない人も多いかもしれない。実際、これまで話題にしようにも話が噛み合うことはまずなかったので、今回の映画化は正直、意外な感じがした。
 映画に登場するバンドはいずれも実在のバンドをモデルにしていて、劇中名の「TOKAGE」はリザード、「軋轢」はフリクション、「ロボメイヤ」はZELDAといった具合である。ちょうど私が高校生だった時期に重なり、リアルタイムで見ていた。出会ったのが音楽雑誌だったか、ラジオだったかは覚えていないが、ニューウエイブを特集したFMラジオをカセットテープに録音して何度も繰り返し聞き、その音源はデジタル化していまも手元にある。ライブにも行った。

ユーイチこと写真家・地引雄一を演じる峯田和伸(左)と、モモことモモヨを演じる若葉竜也。工場のイメージはリザードのファーストアルバムと、「リザード年代記 彼岸の王国」と題されたのLPにも使われた。


 ビートルズはすでに解散していたが、熱狂の余波のようなものはまだそこかしこに残っていて、ジョン・レノンも健在だった。その超えられない壁をなんとか打ち砕こうとする動きがニューウエイブだった。それぞれのバンドがそれぞれのスタイルで新しい音楽をぶつけてきて、怒濤のようなその勢いはおもしろく、興奮させられた。YouTubeがない時代、新しい音楽をいち早く聴こうとロンドンのレコード店から新譜をバイト代をつぎ込んで定期的に送ってもらっている強者がクラスメイトにいて、よくテープに録音して回してくれた。音楽というものがあたかも進化するものに思え、貪るように聴いたものだった。同じ時期、ワールドツアーをしたイエロー・マジック・オーケストラが逆輸入のかたちで注目されたのも大きかった。
 しかし、なにかがこれからはじまると予感させられたニューウエイブはあれよあれよと失速し、何枚かのレコードを出して動向を耳にしなくなるバンドが多かった。なにがあったのか、よくわからなかったのだが、そのあたりの状況を追ったのが映画『ストリート・キングダム』のストーリーとなる。映画のなかで中心人物の一人として描かれる「モモ」ことモモヨのことが気になり、取材をして話を聞いたのはたしか1990年代末のことだった。ホームページをつくっていて、当時のことをいろいろ書いていたからである。
 以来、ときどき個人的に会っては、なにか一緒にできればと話し込んだ。雑誌のようなものをつくろうとしていたのだが、いつしか話が大きくなり、音楽スタジオの経営を引き継ぐという事案も出てきて次第に気持ちがついていかなくなった。そして、なにひとつ実現することはできないままやりとりは途絶え、私はプラハに移り住むことを決める。モモヨはモモヨで四半世紀ぶりにライブのステージに立ったり、「リザードⅣ」と題した新譜やこれまでの作品を集めた全集「Book of Changes Complete Works of Lizard」という10枚組CDを制作したりした。
 映画化された「物語」を見て、モモヨと個人的に関わるなかで問われているのは常に自分であり、他者でも社会でもないのだと鋭く突き詰められていったのを思い出した。それはまさに思い通りに行かずに追い詰められていく“モモ”に対し、写真家のユーイチが「うまくいかないのは自分がちゃんとしていないからだ」と泣きながら諭す印象的な場面と重なる。
 あれから20年以上の月日が経ち、Zineと呼ばれる雑誌が各人各様でつくられ、「一人出版社」や「独立系書店」と呼ばれるものが一般化した。商業化するのはむずかしいと、かつては躊躇した雑誌もいまならもう少し気楽にできるかもしれない。SNSの普及で、うまく告知すればバズらせられるかもしれない。それが当たり前になったなか、いまから考えればなんとも不自由な時代に手作りでなにかをつくり、だれかに送り届けようとあがいた人たちに焦点を当てた映画がつくられたのが興味深い。

映画『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』は全国公開中


 人間模様のパッチワークのように進行する映画の最後に、中村獅童の演じるヒロミが登場する。じゃがたらというバンドを率いた江戸アケミがモデルだが、「やっぱ自分の踊り方でおどればいいんだよ」という彼の言葉をいまも掲げる音楽専門店が映し出される。そこにある「自分の踊り方」には一見すると自由な時代の不自由さへの問いかけがあり、この映画はいまこのタイミングだから成立したのだと感じ入った。エンディングで江戸アケミが詞を書いた『もうがまんできない』を出演者が順番に歌い、「ちょっとの搾取なら がまん出来る♫」と流れるのも、“ちゃんとしていない”時代への見事な批判になっている。そして、高校生のとき、一回り上の世代が中心となっていたニューウエイブというものに心の深い部分で強い影響を受け、行動原理のひとつにすらなっているのを映画を見て痛感した。
(文中敬称略)

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この記事を書いた人

新聞社、出版社、編集プロダクションを経てフリーランスの記者/編集者として活動。文琳社代表。2006年から2024年までチェコとスロヴァキアに家族で居住し、子どもの成長記録を中日新聞文化面に連載したのち、『プラハのシュタイナー学校』(白水社)としてまとめる。その間、日本滞在中に岐阜と三重の各市町村を回り、「東海エリア探訪記」を中日新聞『アドファイル』に連載。岐阜については『岐阜を歩く』(彩流社)を刊行する。ほかに『不自由な自由 自由な不自由 チェコとスロヴァキアのグラフィック・デザイン』(六耀社)、『イマ イキテル 自閉症兄弟の物語 知ろうとするより、感じてほしい』(明石書店)などの著作がある。

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