昨年、画家で椙山女学園の教育学部長を務める磯部錦司さんに話を伺ったとき、熊谷守一(1880-1977)の『ヤキバノカエリ』(岐阜県美術館蔵)と題された作品を見たのが作風を一変させ、抽象的な絵画に取り組むきっかけになったと振り返っていたのがとても印象に残った。熊谷といえば岐阜県の付知(現中津川市)出身で、猫など動植物をモティーフに描く素朴な作品が人気を集める画家だと思っていたからだった。
なにがそこまでの衝撃を磯部さんに与えたのかを知ろうと、山﨑努が熊谷を、樹木希林が妻の秀子を演じる映画『モリのいる場所』(2018年、監督・沖田修一)を見たりもしたが、画家についての解像度を高めこそすれ、これまで抱いていたイメージを大きく覆すことはなかった。それは熊谷に対する世評の最大公約数ということになるのだろう。
だからこそ磯部さんに影響を与えたものがなんだったのか、ますます気になった。それがわかれば、あるいは磯部さんの描くような抽象を理解できるようになるのかもしれない。宿題をもらったようなもので、いつも頭のどこかに熊谷のことを気にかける日々が一年あまり過ぎたある夏の暑い夜のこと、『海』と題された熊谷のシルクスクリーン作品を知った。沖合に島が浮かぶ磯辺に、鯛とおぼしき魚が大きく飛びはねている絵なのだが、いったいこれはなんなのだと思った。声を出して笑ってしまったほどである。
というのもその景色はいま住んでいる家の目の前に広がる風景そのもので、沖合に浮かぶ島を背景に、日ごろから魚たちが水面を勢いよく飛び跳ねるのを目にしているからだ。そうした魚たちにいつも声がけをしているのだが、すると「見て、見て」と言わんばかりに三段跳を自慢げに披露したかと思えば、顔だけ海から出してくつろいだりしている。そこに海辺の鳥たちが加わり、見ていてなかなか楽しいものがある。
魚や鳥が眼前に見えているにしても、写真に撮ろうとすると風景のなかの小さな一点か、魚そのもののアップかのどちらかにしかならない。人間の目は高度なズームレンズだからだと、取材に出かけて撮影の指示をするたび、そんなふうに先輩カメラマンから言われたのを思い出すが、熊谷はその視点を作品として見事にまとめていた。
『熊谷守一生前全版画集』(岐阜新聞社)によるとこのシルクスクリーンがつくられたのは1973年から74年のことで、なんと熊谷が92歳のときなのを知り、度肝を抜かれた。とはいってもシルクスクリーンの元になった『海の図』という油彩作品が描かれたのはそれより前、1957年(愛知県美術館蔵・木村定三コレクション)や1958年(熊谷守一つけち記念館蔵)のことで、両者は細部や色調が微妙に異なり、試行錯誤の痕跡が伺える。それにしても熊谷が70代後半に描いた作品なのだから畏れ入る。この『海の図』には病死した娘を火葬した日の家族を描いた『ヤキバノカエリ』とものの見方・とらえ方に通じるものがあり、ここに来てようやく磯部さんに与えられた宿題が氷解する思いがした。

興味を深め、熊谷や関係者の書いた本を何冊か読んでみた。東京美術学校と呼ばれた東京藝術大学の前身で学び、『海の幸』で知られる青木繁とは同窓で、いかにも美術の教科書に出てくるようなレンブラントを髣髴させる重厚な絵をそのころは描いていた。卒業後は郷里の付知で日傭(「ひよう」と読み、山林で伐採した丸太を川で運び出す職人のこと)をするなどして、6年あまりほとんど絵を描かない生活を送った。以後も寡作がつづくが、一九四七年、長女を亡くしたときのことを描いた『ヤキバノカエリ』が大きな転機となる。熊谷が子どもを失うのは次男につづき二人目だったが、貧しく、医者に診せることができないからだった。このとき熊谷は67歳になっていた。今日の感覚で言えば、定年後の再雇用が終わる年齢をとうに過ぎている。一般的に知られている独自のスタイルを熊谷が確立するのはそれからなのだから凄まじい。
私の家のリビングにはいま『海』のシルクスクリーンが飾られている。シルクスクリーンといっても筆で描いたようなタッチがあり、印刷物やコンピューターのモニター上ではよくわからないディテールになんともいえない職人技が光ることにも目を見張らされる。シルクスクリーンを作成したシムカ プリント アーチスツという工房は熊谷の作品を扱い、後年の活動に深く関与していた東京・銀座の画廊ギャルリームカイを運営する向井加寿枝の子息である川西浩史らが東京とニューヨークを拠点にしていた。熊谷のほかにも横尾忠則やアメリカのジャスパー・ジョーンズの作品作成に携わったことで知られる。鈍く輝く金の額縁も、金は自然の色とする熊谷の趣向に画廊主が合わせたものだ。
海だから鯛だと勝手に思っていたのは実は鯉で、熊谷の自宅にあった金太郎人形がモデルになっているらしい。そうかと思えば鯉ではなく「鯤(こん)」という『荘子』に出てくる魚で、伝説の大鳥「鵬(ほう)」とならんとしているのだとも豊島区立熊谷守一美術館では解説しているのだから、なんとも壮大である。
偶々なのか、必然なのか、長い海外生活に終止符を打つのと、定年の年を迎えるのが重なってからというもの、一線から退かされ、自らも退いた気持ちになっていたが、毎日、壁に掛かる作品を目にしては次第に前向きになってきた。それは一枚の絵が私にもたらしたなによりの効用である。磯部さんが作風を変えるきっかけとなった熊谷守一という先人は、私が海外から日本に戻る前後から感じてきた、地に足がつかず、漂うようでいてなんとも抑圧的な状況を抜け出す道筋を照らし出すことにもなっていた。
