ファストファッションへのアンチテーゼ 職人を守って持続可能性を追求する【続・東海エリア探訪記】

 OSOCUというブランドを知り、目を留めたのは、どのように読ませるのか気になったからだった。国境を越えれば言葉が変わる多言語な環境では、それをどう発音し、どこにアクセントを置くかが一種の踏み絵になっているのを、海外で長らく暮らすなか、私はいろいろな場面で何度も体験してきた。子音はとくに厄介で、たとえばOSOCUはチェコ語では「オソツ」となる。そんなこともあって、日本の街角にあふれる欧文とカタカナの組み合わせを見てはなんかおかしいと、よく混乱させられている。
 検索してみると、「織り(Ori)」「染め(SOme)」「括り(CUcuri)」をつなげてOSOCUとしたとホームページにはあり、言葉に込められたこだわりになるほどと思った。読み方としてはCUをイタリア語風に“ク”と発音させるところにアパレルらしさを感じつつ、実は「遅く」に通じ、世界を席巻するファストファッションへのアンチテーゼをそのままブランド名にしているのを読み取り、おもしろみを感じた。

OSOCUの定番となっているバルーンパンツ。染めの風合いが個性的だ(写真提供=谷佳津臣さん)。


「仕事にするまでファッションにはとくに興味がなく、気を遣うほうでもありませんでした。家業は明治9年に名古屋で創業した繊維問屋なのですが、実家と事務所が離れていることもあり、なにをしているのか詳しくは知りませんでした。2008年に6代目の跡継ぎとして会社に入ってみると、過剰生産・売れ残り在庫といった繊維業の負の側面を知りました。徐々にではありますが、必要とされるモノをつくることに取り組んでみたいという気持ちになったのがOSOCUの原点のように思います」
 と谷健株式会社代表取締役の谷佳津臣(かづお)さんは言う。繊維問屋とは言っても取扱商品は時代時代で主軸が変わり、谷さんの携わったときは洋服が多かったが、その前には寝具が中心だったときや、ギフト用のタオルだったときもある。
 服装に無頓着だった谷さんは服飾の仕事に就くことで、次第に意識を変えていく。
「服といえばファッションのことだと思っていましたが、OSOCUを通じていまは生活道具として服をつくっているととらえています。それを自分たちの手でつくるのはすごくおもしろみがあるし、作り手が見えるものを日々の暮らしで使うことに豊かさを感じます」
 会社勤めの人がスーツを着るような感じで、仕事着としてOSOCUの服を選ぶ人が少なからずいると谷さんは指摘する。こうした服づくりを通じて知多木綿名古屋黒紋付染など同じ愛知が育んだ伝統技術や産業と出会い、服の地産地消もめざすようになる。
 緻密な仕掛けをOSOCUの活動のそこかしこに感じるが、そのバックボーンとなっているのが大学の法学部を卒業した谷さんが就職したコンサルティング会社での経験だ。顧客の多くは地方の会社の社長や役員で、経験を重ねた強者を卒業したての谷さんが説得力をもってプレゼンするには、マーケティングや経営について事前にしっかり勉強しなくてはならなかった。
「ずいぶん尖った会社で、当時は3年で辞める人を募集していました。家業を継ぐことが決まっていたわけではないのですが、長男でしたし、コンサル業務をするなかで長くつづいている会社はそんなにたくさんあるわけではないのを知り、創業から100年以上経っている会社をだれも継がないのはないと意識するようになりました」
 自分で事業をはじめたわけではない跡継ぎという立場は過去を担うことが求められ、それを自分で終わらせるわけにもいかないと谷さんは痛感する。そのような立ち位置に身を置くと、「つづける」「つなげる」ことがなにより必要で、大切な要素になってくる。創業時の事業を守る会社もあれば、こだわらずに業務転換する会社もあるなかで、祖業の繊維という分野をつづけたい気持ちが谷さんには強かった。そのためにはどうしたらよいかを考えていくなかで、OSOCUに結びついていく。

名古屋市有松に設けられたOSOCUの工房で知多木綿による同ブランドの服を身にまとう谷佳津臣さん(=写真提供)。


「職人さんは収入の面であまりよくはなく、生活できないから辞めていく方がいる状況も見聞きし、将来的に一部の工程が絶滅しかねない、ひいてはモノがつくれなくなると危惧しました。ですから私どもがつづけるのだとしたら、せめて暮らしが立ちゆく水準には戻したい。だからといって会社として高収入の保証をめざしているわけではなく、そうしたいのであれば職人さん自身が自分でがんばらなくてはなりません」
 なにをするにも絶対に必要なのが試行錯誤で、しかもそれをいかに早くするかだと谷さんは力説する。なにが求められ、なにが当たるかはわからない時代だからだ。コンセプトは「遅く」であっても、スピード感をもって取り組まなくては持続できるものも持続できないと受け止めた。

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この記事を書いた人

新聞社、出版社、編集プロダクションを経てフリーランスの記者/編集者として活動。文琳社代表。2006年から2024年までチェコとスロヴァキアに家族で居住し、子どもの成長記録を中日新聞文化面に連載したのち、『プラハのシュタイナー学校』(白水社)としてまとめる。その間、日本滞在中に岐阜と三重の各市町村を回り、「東海エリア探訪記」を中日新聞『アドファイル』に連載。岐阜については『岐阜を歩く』(彩流社)を刊行する。ほかに『不自由な自由 自由な不自由 チェコとスロヴァキアのグラフィック・デザイン』(六耀社)、『イマ イキテル 自閉症兄弟の物語 知ろうとするより、感じてほしい』(明石書店)などの著作がある。

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