地方出版社を支えた『図書新聞』の“終刊” 磁場を失った出版の行く末【続・東海エリア探訪記】

『図書新聞』が2026年4月4日号をもって“終刊”した。再開するかもしれないとの含みをもたせた“休刊”ではなく、この言葉をあえて選ぶところに“らしさ”を感じた。
 1949年創刊の『図書新聞』は本の書評を中心とした新聞で、毎週発行してきた。終刊号には3730号と刻まれ、それだけ長い月日をかけて出版物と文字通り格闘してきたことを示している。
 書評というと新聞の文化面であれば一般でも目にする機会も多いだろうが、それを専門的に扱うのが書評紙で、かつては『日本読書新聞』(1984年無期限休刊)を合わせ3紙が発行されていた。それが『図書新聞』の終刊により、『読書人』だけになった
 2006年にチェコで暮らしはじめてから私は『図書新聞』を購読するようになったのだが、おかげでどのような本が日本で出版されたばかりではなく、新しい出版社の動きなども知ることができた。専門書も含めて幅広く目配りし、東海エリアに拠点を置く出版社をはじめ、一般紙や雑誌の書評欄では取りこぼしがちな“地方出版社”や“一人出版社”の刊行物を取り上げる機会も少なくなかった。
『図書新聞』との関わりは、大学のときの先生に編集長の須藤巧さんを紹介されたことがきっかけだった。大学を卒業したばかりの20代で編集長の重責を担っていることに驚かされたが、先生を交えて話していて、任されるだけの博識とバランス感覚を備えていることに瞠目した。それが縁となって『図書新聞』の年初号に特集として組まれる「世界への視座」という欄にチェコのことやスロヴァキアのことを書くようになり、書評も書くようになった。

神保町に編集部があったころ、本の山に囲まれて机に向かう須藤巧編集長


 書評と一口にいってもこれがなかなかの大仕事で、きちんと取り組もうとすればするほど手間暇がかかる。何日もかけて本を読み込み、あるいは読み返し、何日かかけて書評を書いていく。何度となく書き直しながら、これでいいのだろうかと考えあぐねる。人が精魂を込めてつくりあげたものに対してなんらかのことを書くからには、それだけの責任がつきまとう。好き勝手に読後の感想を書くわけにはいかず、否が応でも慎重になる。問われているのはどう読んだかという自分自身であり、突き詰めれば本とはなにかを考える修行であり、苦行だった。書評家を名乗る知人が付箋だらけのぶ厚い本を抱えているのを見て、自分だけではないのだと感じた。
 以来、日本に行くたび、先生と編集長と3人で会うようになった。先生とはいっても所属した文学部ではなく法学部の教授で、シュルレアリスムについての授業を文学部で受けもっていた。そんなこともあって「ダダの遠足」(1921年に実際におこなわれたイベント)と称して浅草で落ち合ったり、 雑司ケ谷霊園に歴史的な人物の墓参に行ったりした。編集部が神保町から高田馬場に移転したときも、亀戸に移転したときもやはり「ダダの遠足」に先生と出向いた。そして帰りはみなで食事をして奢ってもらったうえ、「小遣いをやる」と先生は500円をくれた(1000円のときもあった)。卒業してずいぶん長い年月が経ち、40代50代60代となっても変わらずに先生と生徒の関係をつづけられるのは考えてみれば奇跡かもしれない。先生を介して大学で同じ学年だった人と、本を書いているつながりから“プチ同窓会”と称して再会したこともあった。
 こうして『図書新聞』という磁場とするかのように、10年ほど前から私の仕事の中心は雑誌から本になっていくのだが、昨年4月、「本紙に残された時間はあまりないかもしれません」とSNSを通じて窮状を訴え、当たり前だと思っていたものが消えるかもしれない事態を唐突に知った。これまで何度となく雑誌の“休刊”に立ち会ってきたなかで、いちばん身に応えた余命宣言だった。原稿料は出ないに等しいにせよ、なにか書きたいことがあればどんなことであれ自由に書ける場など、ほかになかなかないからだ。そう感じていたのはほかにも大勢いて、「はじめて書評を書かせていただいた」「書く場を与えられた」という声が各方面から聞こえてきた。90年代半ばくらいまではたしかに存在した「雑の器」としての雑誌の機能を、『図書新聞』という書評紙が一手に引き受けていた面があるのはたしかだろう。

図書新聞の最後の2号と、長らく代表をつとめた井出彰さんによる『書評紙と共に歩んだ五〇年』(論創社)


 以来この1年あまり、さまざまなメディアが『図書新聞』を話題にし、惜しむ声が次々に沸き起こった。こんなに注目されていたのかと思うほどだったが、終刊から最後の2号は「図書新聞と私」との特集で関係した識者の声が、最後は「スタッフ座談」として編集関係者の声がまとめられた。そこで編集長として須藤さんは「私は図書新聞を深く愛しすぎてしまいました。だからこの終刊は、わが人生の終わりでもあります。一巻の終わりです」と発言している。それはこれまで個人的に会ったとき、何度となく耳にしてきた言葉でもあった。
 また、座談会のなかで編集部の米田綱路さんが終刊をめぐって注目されたことに対し、「いままで文句を言われたり、馬鹿にされたり否定されたりすることはよくあったけど」と驚きをもって反応していた。個人的にも新聞や雑誌の仕事をするなかではなかったこうした揶揄を、ときおり本の仕事を通じて感じてきただけになるほどと思った。貧すれば鈍するとはよく言ったものである。
 最後に「本日にて弊紙は幕を閉じ、図書新聞は解散します。書評紙の精神を胸にそれぞれの道を歩み出します」(3月31日)とSNSに発信し、その鼓動を止めた。磁場を失った無力感に苛まれている。

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この記事を書いた人

新聞社、出版社、編集プロダクションを経てフリーランスの記者/編集者として活動。文琳社代表。2006年から2024年までチェコとスロヴァキアに家族で居住し、子どもの成長記録を中日新聞文化面に連載したのち、『プラハのシュタイナー学校』(白水社)としてまとめる。その間、日本滞在中に岐阜と三重の各市町村を回り、「東海エリア探訪記」を中日新聞『アドファイル』に連載。岐阜については『岐阜を歩く』(彩流社)を刊行する。ほかに『不自由な自由 自由な不自由 チェコとスロヴァキアのグラフィック・デザイン』(六耀社)、『イマ イキテル 自閉症兄弟の物語 知ろうとするより、感じてほしい』(明石書店)などの著作がある。

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